- 本書の概要
- 著者プロフィール
本書『人生論ノート』は西田幾多郎と並ぶ日本を代表する哲学者であった三木清が著した随筆集。「幸福」「孤独」「死」「成功」「虚栄」など、人生において誰もが経験しながらも突き詰めて考えることの少ない 様々なテーマを扱っている。平易な内容ではないが、それゆえに個人の生き方から社会・組織の在り方まで多くの示唆を得られるはずだ。
著者の三木清は哲学者、元法政大学法文学部教授。京都帝大で西田幾多郎に学んだ後、ドイツに留学、リッケルト、ハイデッガーの教えを受けた。戦時中に治安維持法違反で保釈逃走中の知人を支援したことで検挙され獄死。死後出版された『人生論ノート』は、刊行以来 80年以上読み継がれるロングセラー。
1897年兵庫県生まれ。哲学者。京都帝国大学卒業後ドイツ・フランスに留学し、リッケルト、ハイデッガーらに師事。帰国後、マルクス主義哲学、西田哲学を研究。哲学的論稿や著作を発表すると同時に批評家としても活躍。1930年治安維持法違反で検挙される。1945年再度反戦容疑で逮捕され、終戦を迎えたが釈放されず、獄中で死去。
死について
幸福について
懐疑について
習慣について
虚栄について
名誉心について
怒について
人間の条件について
孤独について
嫉妬について
成功について
瞑想について
噂について
利己主義について
健康について
秩序について
感傷について
仮説について
偽善について
娯楽について
希望について
旅について
個性について
後記
『語られざる哲学』
『幼き者の為に』
要約ダイジェスト
幸福について
過去のすべての時代、つねに幸福が倫理の中心問題であった。ギリシアの古典的な倫理学がそうであったし、ストアの厳粛主義の如きも幸福のために節欲を説いたのであり、キリスト教においても、人間はどこまでも幸福を求めるという事実を根本として宗教論や倫理学を出立したのである。
だが幸福について考えないことは、今日の人間の特徴である。現代における倫理の混乱は種々に論じられているが、新たに幸福論が設定されるまでは倫理の混乱は救われないであろう。
幸福について考えることはすでに不幸の兆しであるといわれるかも知れない。健全な胃をもっている者が胃の存在を感じないように。しかしながら、むしろ我々の時代は人々に幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸なのではあるまいか。
人間を理解するには、死から理解することが必要である。死は具体的なものである。しかしこの全く具体的な死はそれにも拘かかわらず一般的なものである。ひとびとは唯ひとり死ぬる故に孤独であるのでなく、死が一般的なものである故に、ひとびとは死に会って孤独なのだ。
しかるに生はつねに特殊的なものだ。死は一般的なものという意味において観念と考えられる一方、生は特殊的なものという意味において想像である。人生は夢であるということを誰が感じなかったであろうか。それは単なる比喩ではなく、実感である。そして生が想像的なものであるという意味において幸福も想像的なものであるということができる。
生と同じく幸福が想像であるということは、個性が幸福であることを意味している。「人格は地の子らの最高の幸福である」というゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になるということは人格になるということである。
人格は肉体であると共に精神であり、活動であると共に存在である。今日ひとが幸福について考えないのは、人格の分解の時代と呼ばれる現代の特徴に相応している。幸福は人格であり、彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものだ。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘う。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福なのだ。
虚栄について
虚栄は人間的自然における最も普遍的な、かつ最も固有な性質である。虚栄は人間の存在そのものである。人間は虚栄によって生きている。虚栄によって生きる人間の生活は実体のないものである。つまり人生はフィクション(小説)である。
だから、どのような人でも一つだけは小説を書くことができる。普通の人間と芸術家との差異は、ただ一つしか小説を書くことができないか、それとも種々の小説を書くことができるかという点にあるといい得るであろう。
人間的なすべてのパッションは虚無から生れ、その現象において虚栄的である。人生の実在性を証明しようとする者は虚無の実在性を証明しなければならぬ。あらゆる人間的創造はかようにして虚無の実在性を証明するためのものである。
人間は虚栄によって生きるということこそ、彼の生活にとって智慧が必要であることを示すものである。
虚栄心というのは自分があるよりも以上のものであることを示そうとする人間的なパッションである。それは仮装に過ぎないかも知れない。けれども一生仮装し通した者において、その人の本性と仮性とを区別することは不可能に近いであろう。道徳もまたフィクションではないか。
人間が虚栄的であるということは人間が社会的であることを示している。つまり社会もフィクションの上に成立している。従って社会においては信用がすべてである。あらゆるフィクションが虚栄であるというのではない。フィクションによって生活する人間が虚栄的であり得るのである。
創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造というのはフィクションを作ることである、フィクションの実在性を証明することである。虚栄は生活において創造から区別されるディレッタンティズム(趣味として学問や芸術を楽しむこと)である。虚栄を芸術におけるディレッタンティズムに比して考える者は、虚栄の適切な処理法を発見する。
成功について
今日の倫理学のほとんどすべてにおいて置き忘れられた2つの最も著しいものは、幸福と成功である。しかもそれは相反する意味においてそのようになっている。すなわち、幸福はもはや現代的なものでないゆえに。そして成功はあまりに現代的なものであるゆえに。
古代人や中世的人間のモラルの中心は幸福であったのに反して、現代人のそれは成功であるといってよいであろう。成功するということが人々の主な問題となるようになったとき、幸福というものはもはや人々の深い関心でなくなった。
成功のモラルが近代に特徴的なものであることは、進歩の観念が近代に特徴的なものであるのに似ている。成功というものは、進歩の観念と同じく、直線的な向上として考えられる。しかるに幸福には、本来、進歩というものはない。
成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである。
他人の幸福を嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見ている場合が多い。幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである。だから成功は、その本性上、他人の嫉妬を伴いやすい。
一種のスポーツとして成功を追求する者は健全である。 近代的な冒険心と、合理主義と、オプティミズム(楽観主義)と、進歩の観念から生れた最高のものは企業家的精神である。古代の人間理想が賢者であり、中世のそれが聖者であったように、近代のそれは企業家であるといい得る。しかるにそれが一般にはそのように把握されなかったのは、近代の拝金主義の結果である。
もしひとがいくらかの権力を持っているとしたら、成功主義者ほど御し易いものはないであろう。部下を御しゆく手近かな道は、彼等に立身出世のイデオロギーを吹き込むことである。
希望について
人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。希望は運命の如きものだ。もし一切が必然であるなら希望というものはあり得ないであろう。しかし一切が偶然であるなら希望というものはまたあり得ない。
人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。希望を持つことはやがて失望することである、だから失望の苦しみを味わいたくない者は初めから希望を持たないのがよい、といわれる。
しかしながら、失われる希望というものは希望でなく、期待だ。決して失われることのないものが本来の希望なのである。我々は生きている限り希望を持っているというのは、生きることが形成することであるためだ。希望は生命の形成力であり、我々の存在は希望によって完成に達するのだ。
希望と現実とを混同してはならぬといわれる。たしかにその通りだが、希望は不確かなものであろうか。希望はつねに人生というものほどの確かさは持っている。もし一切が保証されているならば、希望というものはない。しかし、人間はつねにそれほど確実なものを求めているだろうか。
希望の確実性はイマジネーションの確実性と同じ性質のものである。人生問題の解決の鍵かぎは確実性の新しい基準を発見することにあるように思われる。
何物も断念することを欲しない者は真の希望を持つこともできない。形成は断念であるということがゲーテの達した深い形而上学的智慧であった。それは芸術的制作についてのみいわれることではなく、人生の智慧である。
旅について
ひとはさまざまの理由から旅に上る。人生がさまざまであるように、旅もさまざまである。しかし、どのような理由から旅に出るにしても、すべての旅には旅としての共通の感情がある。
旅の嬉しさは、解放されることの嬉しさである。そして旅における解放ないし脱出の感情には、つねに漂泊の感情が伴っている。旅に出ることは日常の習慣的な、従って安定した関係を脱することであり、そのために生ずる不安から漂泊の感情が湧いてくるのだ。
旅は過程であるゆえに漂泊である。出発点が旅であるのではなく、到着点が旅であるのでもない。旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味うことができない者は、旅の真の面白さを知らぬものといわれる。
日常の生活において我々はつねに主として到達点、結果をのみ問題にしている、これが行動とか実践とかいうものの本性である。しかるに旅は本質的に観想的である。旅において我々はつねに見る人である。平生の実践的生活から脱け出して純粋に観想的になり得るということが旅の特色であり、旅が有する意義もそこから考えることができる。
生について我々が抱く感情は、我々が旅において持つ感情と相通ずるものがある。我々はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか。これがつねに人生の根本的な謎である。そうである限り、人生が旅の如く感じられることは我々の人生感情として変ることがない。
生は未知のものへの漂泊である。我々の行き着く処は死であるが、死が何であるかは、誰も明瞭に答えることができない。どこへ行くかという問いは、飜って、どこから来たかと問わせる。人はその人それぞれの旅をする。旅において真に自由な人は、人生において真に自由な人である。人生そのものが実に旅なのだ。