『医療現場の行動経済学』
(大竹文雄、平井啓/編著)

  • 本書の概要
  • 著者プロフィール
  • 目次
 行動経済学とは、人間が伝統的経済学で考えられたように合理的には行動しないことを前提とした新たな経済学で、現在、その知見を実社会へ応用する試みが続けられている。例えば、医療現場では、重大な意思決定を求められる場面がしばしばあるが、医師が合理的な所見を伝えても、患者は一生に一度のことで冷静に判断できない場合も多い。

 このようなときに、医療者も患者も、行動経済学を知っておくことでよりよい意思決定につなげることができるのだ。本書では、医療現場における意思決定の場面でよくある「バイアス」を実際の医師と患者の会話で再現。患者と家族の適切な意思決定を促す「ナッジ」など、医療行動経済学を活用した意思決定支援や後悔を減らす選択を分析する。

 本書に書かれている行動経済学の知見は、医療現場以外にも応用可能だ。意識しておくだけで、いざとなったときに相応の対応ができる可能性は高まるだろう。編著者は労働経済学・行動経済学を専門とする大阪大学大学院経済学研究科教授、大竹文雄氏と、医療心理学・行動経済学などを専門とする大阪大学大学院人間科学研究科准教授、平井啓氏。

編著者:大竹 文雄(Otake Fumio)
 大阪大学大学院経済学研究科教授。1961年京都府生まれ。1983年京都大学経済学部卒業、1985年大阪大学大学院経済学研究科博士前期課程修了。1985年大阪大学経済学部助手、同社会経済研究所教授などを経て、2018年より大阪大学大学院経済学研究科教授。博士(経済学)。
 専門は労働経済学、行動経済学。2005年日経・経済図書文化賞、2005年サントリー学芸賞、2006年エコノミスト賞(『日本の不平等』日本経済新聞社)受賞。2006年日本経済学会・石川賞、2008年日本学士院賞受賞。著書に、『経済学的思考のセンス』、『競争と公平感』、『競争社会の歩き方』(中公新書)など。

編著者:平井 啓(Hirai Kei)
 1972年山口県生まれ。1997年大阪大学大学院人間科学研究科博士前期課程修了。1997年大阪大学人間科学部助手、同大型教育研究プロジェクト支援室・未来戦略機構・経営企画オフィス准教授を経て、2018年より大阪大学大学院人間科学研究科准教授。博士(人間科学)。2010年より市立岸和田市民病院指導健康心理士。
 専門は、健康・医療心理学、行動医学、サイコオンコロジー、行動経済学。2007年日本サイコオンコロジー学会奨励賞、2013年日本健康心理学会実践活動奨励賞を受賞。

第1部 医療行動経済学とは
 第1章 診療現場での会話
 第2章 行動経済学の枠組み
 第3章 医療行動経済学の現状
第2部 患者と家族の意思決定
 第4章 どうすればがん治療で適切な意思決定支援ができるのか
 第5章 どうすればがん検診の受診率を上げられるのか
 第6章 なぜ子宮頸がんの予防行動が進まないのか
 第7章 どうすれば遺族の後悔を減らせるのか
 第8章 どうすれば高齢患者に適切な意思決定支援ができるのか
 第9章 臓器提供の意思をどう示すか
第3部 医療者の意思決定
 第10章 なぜ一度始めた人工呼吸管理はやめられないのか
 第11章 なぜ急性期の意思決定は難しいのか
 第12章 なぜ医師の診療パターンに違いがあるのか
 第13章 他人を思いやる人ほど看護師に向いているのか

要約ダイジェスト

診療現場での行動経済学的バイアス

 かつての医者は、患者には医学的知識がないことを前提に、医者がよいと思う治療法を選択していた。つまりパターナリズム(温情主義)に基づいて医療行為が行われ、患者も医者に治療法の選択を任せてきた。

 しかし、医学知識が患者にも普及し始めたことなどから、現在はインフォームド・コンセントという手法が一般的になっている。インフォームド・コンセントは、医者が患者に医療情報を提供し、患者が治療の内容や後遺症・副作用の可能性について十分に理解したうえで、医者と患者が治療の方針について合意して意思決定をしていくというものである。

 だが患者の方からすれば、医学的な治療法は、後遺症や副作用が発生する可能性が確率的であり、その確率や深刻さが異なる複数の治療法の中から患者自身が選ぶところに難しさがある。

 行動経済学では、人間の意思決定には、合理的な意思決定から系統的に逸脱する傾向、すなわちバイアスが存在すると想定している。そのため、同じ情報でも表現の仕方次第で私たちの意思決定が違ってくる。医療者がそうした患者の意思決定のバイアスを知っていたならば、患者により合理的な意思決定をさせることができるようになる。

 例えば、半年前に肺がん、骨の多発転移の診断を受け、抗がん治療を受けていた 60代の女性患者に新たながんの転移が見つかり、2種類目の抗がん治療を開始した。次の会話は、がん患者と主治医の間で交わされたものである。

主治医「骨の痛みが出てきましたね。今後猩々が悪化し生活に支障が出る可能性も考えて、早いうちから症状緩和専門の先生に診察してもらっておいた方がいいですよ」
患者 「先生、骨の痛みはありますけれど、新しい先生に診てもらうまでもないです」
主治医「これから、骨の痛みが強くなることもありますよ」
患者 「新しい抗がん剤を始めたばかりですよ。まだまだ大丈夫ですよ。先生」
主治医「……。」

 主治医は、この患者は自身の病状が悪化していることにうすうす気づいているが、それを考えたくないのであろうと考えた。そこで、「抗がん剤治療が2種類目になった方皆さんに一応お伝えしている」と伝え、「一旦主治医が痛み止めを出して、それでも痛みが改善しなければ専門の先生に診てもらうことにします」という提案をした。

 現在の治療法を維持したいというのは、行動経済学でいう現状維持バイアスが発生しているからと考えられる。現状を変えることを私たちが損失とみなしてしまうことが原因の一つだ。この場合、

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