- 本書の概要
- 著者プロフィール
それは現在の「大人」が、近代民主主義国家の構成員として、本当の意味で必要な道徳を教わってこなかったからだ。そこで本書では「西洋近代思想」の歴史をひも解き、カントやデカルト、ルソーなど代表的思想家の主張を丁寧に紹介しながら「近代」「市民」「国家」「道徳」の本質を解説。さらに日本の道徳教育のあるべき方向性を指し示す。
「やりたいことをやる」のは「奴隷の道徳」、日本や東洋的道徳との接続など、刺激的かつ本質的な考え方も示され、道徳論の基本を知りたい方はもちろん、思想哲学に興味がある方、政治経済に関心が高いビジネスパーソンにも多くの発見があるはずだ。著者は国立の教員養成大学である北海道教育大学旭川校准教授で、教育哲学、道徳教育の専門家。
北海道教育大学准教授。1978年三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。現在、北海道教育大学旭川校准教授。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『偶然と運命―九鬼周造の倫理学』『看護学生と考える教育学―「生きる意味」の援助のために』、共編に『反「大学改革」論―若手からの問題提起』(以上ナカニシヤ出版)がある。
第2章 なぜ「合理的」でなければならないのか―啓蒙主義から考える「科学」と「道徳」
第3章 なぜ「やりたいことをやりたいようにやる」のはダメなのか―デカルトから考える「自由」と「道徳」
第4章 なぜ「ならぬことはならぬ」のか―カントから考える「人格の完成」
第5章 なぜ「市民は国家のために死ななければならない」のか―社会契約論から考える「国家」と「市民」
第6章 なぜ「誰もが市民でもあり、奴隷でもある」のか―ルソーから考える「市民」の徳
第7章 なぜ「学校は社会に対して閉じられるべき」なのか―共和主義から考える「士民」の徳
要約ダイジェスト
「近代」は「まったく新しい時代」
「道徳の教科化」問題をめぐっては、いわゆる左派・進歩派と右派・保守派とのあいだで論争が続いている。だが、左の批判派も、右の推進派も、大事なことをきちんと考えないまま、お互いの主張をぶつけあっているだけだ。
その大事なこととは、「近代」の人間と社会と国家の論理にほかならない。もし私たちが、これらのことをきちんと理解できていないのだとすれば、それは私たちが、社会と国家を形成する人間として未熟である、つまり、まだ「大人」になれていないということを意味する。
「近代」という時代は、いくつかの「革命」によって登場した。とくに大きな革命とされているのが、「科学革命」「市民革命」「産業革命」の3つで、「科学革命」によって知識についての考え方が変わり、「市民革命」によって政治の仕組みが変わり、「産業革命」によって経済の仕組みが変わった、ということだ。
政治史では、古代とは古代ギリシアの民主主義を意味する。とくにアテネという都市国家(ポリス)では、かなり高度な民主主義が営まれていた。古代ギリシアの民主主義は、4~5世紀になると衰退し、そこに登場したのが、封建制という政治制度だった。封建制とは、簡単にいえば、領地を媒介とした主従関係である。
この封建制の時代が中世で、中世の末期になると、絶対王政(絶対君主制)と呼ばれる体制が出現する。ところが、17~18世紀以降、各地で民衆たちが民衆たち自身で社会を統治する仕組みへと変わっていった。これが「市民革命」で、民主主義が登場したことを意味する。
政治史における古代と近代、つまり古代の民主主義と近代の民主主義とのあいだには、決定的な違いがある。それは、古代の民主主義は、奴隷制を基礎としたものであったということだ。古代ギリシアの「奴隷」とは、政治に参加する権利と義務をもたず、もっぱら労働と経済活動にのみ従事する、いわば純粋な「労働者」のことだ。
しかし、近代の「市民」は「奴隷」を所有することはできない。つまり、民主主義であると同時に産業社会でもある近代において、私たちは誰もが、労働によって自分の身を養える程度には有用な「奴隷」でなければならないと同時に、労働から解放されて政治に参加し、国家を支える有徳な「市民」でもなければならないのだ。
したがって、学校教育もまた、「奴隷教育」と「市民教育」とを、同時に行なわなければならず、「道徳」にもその両面がある。しかし、